2011年12月26日

奈良線木幡駅

 おはようございます、サムサムだけど元気な奥野君です。今日の当直で今年の平常勤務は終わり〜〜 明日の夜行バスでまたお出かけです〜〜

 ということで、奈良線木幡駅 Y(紡績)0.7km。

●撮影日 2011年11月19日

 実はこのお出かけの予定は宇治まで。
奈良線木幡駅
雨なのに元気ですね。
奈良線木幡駅
その上木幡は専用線が長いのでこの日も飛ばそうと思っていた所。
奈良線木幡駅
それが何で行ってんだか(笑)。
奈良線木幡駅
 そうなんです。専用線が遊歩道に~~ 
奈良線木幡駅
これが分岐点跡かな? 
奈良線木幡駅
で、土手~~ 
奈良線木幡駅
鉄橋跡~~ 
奈良線木幡駅
コンクリート橋~~ 
奈良線木幡駅
京阪をまたぐ鉄橋跡~~ でも桁下1.2mで自転車を降りろって・・乗ったまま通れる人っているのかしら(笑)。で、京阪を渡ると地平に。
奈良線木幡駅
工場名は違いますがよくあることで(ほんとかいな・・)。
 で、実は木幡にはもう一つ専用線が。でも謎なんです。

 ではでは。


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この記事へのコメント
いつも楽しく拝見しております。小生この廃線跡近くに住んでおります。ついこの間お見えになっていたのですね・・・。感激です!知る人ぞ知る、旧陸軍宇治火薬庫宇治火薬製造所の専用線ですね。この廃線跡がY紡績の専用線だったとは知りませんでした。昭和50年代前半ごろまでは線路はもちろんのこと、プラットホームや貨物を積み込む上屋までが完璧に残っていましたが、現在ではすべて撤去されて跡地は住宅地になり、往時の面影は全く残っていません。最後の10枚目の写真に写っている道路をさらに300mほど直進したあたりが貨物駅跡です。
 ちなみに「その2」の1枚目の写真に写っている緑地帯は線路跡ではなく、並行している舗装された道路が線路跡です。(つまりは奥野様が立っていたところですな)
 尚、「その2」の2枚目以降の廃線跡については全くの初耳で、これが線路跡だという話は今まで聞いたことがないですね。国土地理院のアーカイブ空中写真閲覧システムを使って調べようにもWEBページの改ざん事件の影響で現在閲覧できないようですので、今後の課題にしたいと思います。
 あと、「その1」の9枚目の写真に写っている築堤の反対側(つまり南側)にはかつて使用していたと思われる軍用架線柱が2本残っています。参考までに・・・。
 
Posted by 田中 義之 (たなピョン) at 2011年12月27日 23:41
〈修正〉「軍用架線注」→「軍用電柱」 の誤りです。電化されてるわけないですもんね。ちなみに京阪宇治線の車窓からもよく見えます。ちなみに築堤の南側は田んぼが広がっているので、道路から全体を記録するのにも好都合です。年に数回草刈り作業も行われていて、保存状態はきわめて良好です。
Posted by たなピョン at 2011年12月27日 23:56
 たなピョンさん、はじめまして〜〜(かな?)

 地元の方のカキコ、嬉しいですね。で、「Y紡績」ですが、これも確証があるわけではありません。奥野君の資料はトワイライトマニュアルの専用線一覧だけなので。
 その専用線一覧には「Y紡績 私有機 作業キロ1.4km 総延長キロ0.7km 陸上自衛隊線から分岐」とあるので、距離的にはそうかなと。ただ「使用休止」の文字が。そのうえ39年版、51年版には出てないので、もしかすると書類上存在しただけか、それとも誤植か・・
 自衛隊線の方は「私有機 作業キロ1.1km 総延長キロ1.9km 大蔵省所管旧軍用線」とあり、昭和28年、39年、45年版にはあるので(51年版には無し)、存在したことは間違いないですね。
 で、50年代前半までその線の施設が残っていた事を考えると、現在の自衛隊の場所まで線路は行ってなかったのかな? ただ1.9kmの表記からすれば、相当大きな貨物駅になってしまいますが。となると、奥野君のたどった道は元は川かな? いかにもというカーブが続いていましたが、川を埋めるとそういうカーブになりますので。

 ではでは、こんな風に奥野君の想像だけのブログですが(汗汗)、これからもよろしくお願いしますです。
Posted by 奥野君 at 2011年12月31日 06:51
奥野様。ご無沙汰しております。先日、89歳になる地元の方にいろいろお聞きする機会を得ました。それによりますと、木幡駅から分岐した専用線の終着駅だった貨物駅からは、確かに火薬製造所まで軌道が伸びていたそうです。ただ、具体的なルートとなるとさすがに覚えておられませんでしたが、現在の桃山南団地内を通っていたのではないかということでした。終点は現陸上自衛隊の北門付近で、ここから施設内へは廃線跡を転用した道路が地図でも確認することができます。なにせ比較的早い段階で住宅開発が行われたようで、それらしき遺構は全く残っていないのが残念です。とりあえずご報告まで・・・。
Posted by たなピョン at 2012年04月12日 20:38
 たなピョンさん、こんばんは〜〜
 おお〜〜奥野君がさぼっている間に調べてもらえたのですか。ありがたいです。
 そうなんだ、貨物駅から自衛隊北門まで軌道があったのですね。でも89才の方でないと分からなくなりつつあるのは困ったものです・・
 ではでは。
Posted by 奥野君 at 2012年04月13日 19:38
奥村様、木幡にはこれ以外にも引込み線(旧省線からの分岐)があったのでしょうか?
旧陸軍は、火薬製造所の敷地内・火薬庫(由緒・来歴は、火薬製造所より古い)に、トロッコ的な内部の軌道が惹かれていたという情報は有りますが、確認できません。
JR宇治からも分岐があったというのは、有り得ますし、その場合は、当時の大日本紡績が軍需用物資を製造していたので、軍需工場として、扱われたと言う事とは別なのでしょうか?

わたしは、火薬製造所と、引込み線だけに拘らないで、許波多神社の分裂・木幡池と天井川の問題などに関連付けて調べていますが。
もし、引込み線の情報があるなら、問題を解読する手がかりになるかも知れません。
是非、報告や、記事を、期待します。
Posted by みぃにゃん at 2013年03月04日 19:28
 みぃにゃんさん、こんばんは〜〜
 木幡の解明はなかなか難しいようですね。奥野君の資料は『RM別冊トワイライトゾーン』の専用線一覧くらいです。まだ全部の巻は見てませんが、木幡は陸上自衛隊総延長1.9km作業キロ1.1kmが、昭和25年、昭和39年、昭和45年に記載があり昭和50年にはありません。また昭和39年の作業キロは1.3kmになっています。Y紡績(総延長0.7km作業キロ1.4km)はなぜか昭和45年だけに記載されていますが自衛隊線から分岐で使用休止になっていますね。
 また宇治はY紡績(1,4km)が昭和25.39.45.50.58年に記載されています。
 奥野君の分かるのはこのくらいですね。
 ではでは。
 
Posted by 奥野君 at 2013年03月05日 00:35
はじめまして
いつも楽しみにしております。
私も地元に住んでいたこともあり、何度か歩いたり、仕事の傍ら、資料を探したりしております。
最近、私が知った事をお知らせします。
まず、1922年の地図によると、1300メートルの人車鉄道が宇治火薬製造所(現自衛隊関西補給処北門)から分工場(現桃山南団地)まで伸びているのが確認できました。なお、件の専用線は未開通で、なおかつそこより南へ500メートル付近で西へ向かっていたようです。
戦後、昭和30年ごろの観光絵図には、人車鉄道は描かれておらず、あったと思われる場所は木が植えられている様子が描かれています(爆風除けの松の木かと思われる)
なお、火薬工場はすでに、保安隊と京都大学の敷地になっており、分工場は南側が保安隊、北側は協同化学という会社の工場として描かれています。
ちなみに、しっかりと専用線終端部分の積み込みホームと上屋まで描かれており、信憑性は高いものと思います。
Posted by クハ103 at 2013年08月22日 17:34
 クハ103さん、はじめまして〜〜
 おお〜〜またまた元地元の方〜〜ありがとうございます〜〜 で、なんと詳しく調べられているのですね。おさぼり奥野君は敬服いたします。
 構外の人車軌道があったとは。西側にも伸びていたという事はどこかで奈良線と積み替えをしていたという可能性もありますね。やはり自衛隊線は分工場付近で終わりだったのですね。
 ではでは。
Posted by 奥野君 at 2013年08月23日 11:00
 
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